工場閉鎖の危機を乗り越える

しかし、同社は再び危機を迎える。平成20年に発生したリーマンショックである。
発生当初は「何とか乗り切れた」と考えていたオオアサ電子だったが、親事業者がファンドに買収されてしまい環境が一変。同社の総売上の85%~90%は親事業者からの請負いだったため、取引の打切りによりこれがゼロになった。創業期から30年間の取引を通じて築いてきた信頼関係もすべて失われた。
「このような危機を想定していなかったことは、経営者としてダメだと痛感した出来事でした」(長田社長)。
本来ならばここで工場を閉鎖しなければならない。しかし、同社は「受注専門企業」から「開発提案型企業」へと舵を切りつつあり、メーカーに近い仕事をしていた。社員にもその自負がある。悩んだ末、長田社長は「会社を存続させる」ことを決断した。
状況はきわめて厳しかった。総売上はピーク時の10億円から約2億円にまで落ち込んだが、社員150人分の給料は毎月、少なく見積もっても約3000万円が必要となる。それまで堅実経営を続けてきた同社に借入はほとんどなく、自己資本比率は約47%ときわめて高かった。しかし、このままでは資金ショートが目に見えている。長田社長は、取引金融機関である地元の地方銀行と広島市信用組合(以下「シシンヨー」)に支援を求めたのである。
地方銀行は同行では初となる私募債発行に応じ、シシンヨーはこの私募債と同額の融資を実行。2つの金融機関を併せ1億円を集めることができた。これを元手に毎日24時間体制で粉骨砕身する日々が続いた。1年目は公的な補助金制度を徹底的に調べ、可能な限り活用した。2年目ごろから、さまざまな取り組みに手応えを感じ始め、大きな仕事も受注できるようになる。しかし経営が軌道に乗るまでには丸5年を要した。

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シシンヨーとともに

シシンヨーは再建期における運転資金の追加融資にも応じた。シシンヨーの山本明弘理事長、山根勝正専務理事は2ゕ月に1度はオオアサ電子を訪問し、激励。同社も財務を含めたさまざまな情報をシシンヨーに開示し、アドバイスを求めた。
さらに同社が成長の道を歩み始めると、以前よりも大きな仕事を受注できるようになり、新たな資金需要も生まれた。さらなる成長に繋げるためには、新たな生産機械を自前で作る必要があった。そのための資金5000万円の融資をシシンヨーに相談すると、スピーディーに融資を実行してくれたという。
「シシンヨーは日ごろからオオアサ電子の製造現場をよく見てくれています。生産機械もよく知っており、当社の技術力を評価してくれていたので、融資判断も早かったのでしょう」。
オオアサ電子の取引金融機関は地方銀行1行、シシンヨー、日本政策金融公庫の3行ときわめてシンプル。一般的に中小企業はメガバンクを含む多数の銀行と取引しているが、同社は他行から取引をオファーされても断ってきた。良い時も悪い時も一緒に歩んでいるからこそ、何かあった時に相談しやすいのであり、たくさんの銀行と密度の濃い信頼関係を築くことは難しいと考えるからである。
シシンヨー大朝支店とは創業当時からのつきあい。資金需要がなく、取引が細くなった時期にも、シシンヨーは足繁く通ってきた。訪問すると話を聴くだけでなく、工場の状況や社員の顔色まで、隅から隅までよく見ている。従業員駐車場の車の台数が増えた様子もすぐに気付いた。
「シシンヨーの特徴は、フェイス・トゥ・フェイスだと感じます。他の金融機関と比べても頻繁に訪問してくれ、時には仕事の話以外でも来てくれます。フェイス・トゥ・フェイスを大切に、強みにして、そこに特化した営業活動をしていますね。山本理事長が経営者として、フェイス・トゥ・フェイスを大切にしてきちんと実践されているからこそ、組織全体に浸透しているのだと思います」。
しんくみは金利が高いという意見もある。しかし長田社長は「金利が低くても必要な時に融資が間に合わないのでは話になりません。金融機関の武器は金利だけではないと思います」と、むしろフットワークに注目する。
「しんくみは身近で話がしやすい。規模の大きい銀行には真似できないことであり、この強みを活かしていければ、今後もしんくみは強いと思います」。
しんくみとともに、さまざまな危機を乗り越えたオオアサ電子。今期は7期ぶりの黒字決算を見込めるまでになった。