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三河土と黒七輪

通常、七輪は珪藻土一層で作られるが、黒七輪は三河土の層と一般的な七輪にも使われている石川県能登地方で採れる珪藻土の層との二重構造になっている。内側に断熱性に優れている珪藻土を使用し、外側に水や衝撃に強く頑丈な三河土を使用することで、珪藻土の崩れやすく、割れやすいという弱い部分を補っている。三河土で取り巻く層を持つことが、杉浦氏が作る黒七輪が「金属を一切使用していないにも関わらず、耐久性に優れ長持ちする」と言われる理由の一つである。
「うちで作る黒七輪は、七輪によくみられる金属による補強が要らないうえに、金属の物と比べ燃費が抜群に良い」と杉浦氏は胸を張る。
創業時から修繕を重ねてきた工房で当時から変わらないという黒七輪の製法を紹介しよう。
まず、三河土を素材とした外側の層をろくろで成型し、専用のプレス器を使って珪藻土を素材とした内側の層を作り、乾燥させる。
次に、最も熟練を要する「風戸」と呼ばれる火力調整用の窓を作る「戸口切り」の作業。普通の七輪はこの「風戸」が金属でできており、金属が劣化・腐食し取れてしまうことが壊れる原因の一つとなっている。杉浦氏が作る黒七輪はこの「風戸」も土製の切り出しで作られているため、劣化したり腐食したりすることがなく、七輪が長持ちする秘訣となっている。
外側の層の内側には「引き戸」の部分を作るため、外側の層と同じ三河土の板を貼り付け、専用の道具を使って表面の粘土を切り取って「風戸」を作る。この作業について「慣れれば誰でもできるよ」と杉浦氏は言うが、土製の「風戸」を作れるのは日本で杉浦氏ただ一人。製陶業者の間では「この工程は誰にも真似ができない技術」だと言われている。
成型の後、「黒」七輪と呼ばれる所以である黒い色へと色付けを行う。泥状の炭を塗って乾かし、碁石にも使用される真っ黒な那智石で磨き上げる。磨くことでつやが出るとともに、強度も増すという。
次がいよいよ「焼き」の工程だ。黒七輪は、外側の層と内側の層を別々に焼き上げる。両側に焚口と燃焼室、中央に焼成室がある「だるま窯」は、創業時から何度も補修を繰り返し使用しているもの。この窯で1回当たり400個ほど、1年で計7000個ほど焼くという。焼き上がった三河土の外枠の中に珪藻土でできた中子を組み込み完成。こうして、すべてが手作業で、一つひとつていねいに黒七輪が仕上げられるのである。

生き残った職人技

昭和20年代当時、碧南市、高浜市で黒七輪を作る製陶所は50軒以上あったというが、ガスが普及すると七輪やかまどの需要は一気に減り、多くの製陶所は植木鉢や瓦関係に職を変えていった。杉浦氏が三代目を引き継いだ昭和52年には、手作りで黒七輪を造る製陶所は3軒になっており、現在では、同工房1軒だけである。
多くの工房が廃業に追い込まれるなか、杉松工房だけが生き残った理由はどこにあるのか。「良い取引先に恵まれただけだよ」と杉浦氏は語るが、杉浦氏が職人として強いこだわりを持ち続けていることこそが、その理由だったのではないだろうか。
以前、「風戸」の部分を金属にして黒七輪を大量生産してほしいとの話や、三河土を使わずに金属の補強をしてはどうかといった提案があったが、「絶対に金属は使わん」と断ったという杉浦氏。
「昔はどの家庭にも七輪があり生活の必需品だったが、今、七輪は趣味の物となっている。金属を使い、手作りをやめたら価値がなくなる」
一貫して手作りにこだわり、自らの手で良質な黒七輪を作り続けてきたからこそ、廃業する同業者が増えていくなか、たった1軒となっても、多くの人々に求められる逸品として、現在まで黒七輪を守り続けることができているのだろう。
黒七輪を作るなかで大変なことを訊ねた。
「まぁ、根気かな。七輪作りは単純作業だから、根気さえあれば誰にでもできるよ。失敗した時には何で失敗したか、失敗しないためにどうすべきか、試行錯誤を繰り返しながら辛抱強く技術を自分の物にする根気だね」
七輪作りを始めた当初は、先代から細かく教えてもらうのではなく、自分の目で見て、真似て作った。「自分の手に技術を培ってきた」と杉浦氏は言う。
こうした杉浦氏の熟練の技術は七輪作りに留まらない。「国指定文化財・東松家 住宅」や「西枇杷島 町指定文化財・問屋記念館」等のかまど復元を依頼されるなど、その焼成技術は高く評価され、求められている。

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