SHINKUMI PEOPLE: (写真:左から、梅澤相双五城信組理事長、大柿社長、鈴木相双五城信組常務理事、北相双五城信組支店長)
インタビュー・構成 全信組連仙台支店

住宅街に産みたての茶色い卵がひとつ――。その外見から一目で「美味しい卵のお店」とわかる〈たまごの郷〉は、㈲大秀商事(以下、「同社」)が福島県いわき市泉町で経営する、こだわりの卵と卵をふんだんに使ったスイーツ等の販売店である。
同社は昭和34年、福島県双葉郡大熊町に創業した養鶏場、㈲オオガキの鶏卵卸部門として誕生した。大熊町は福島県浜通りの中央部に位置し、夏は涼しく冬は比較的温暖な土地であるため鶏の飼育に最適であったが、東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故により、養鶏場と〈たまごの郷〉は一時休業を余儀なくされた。
先代である父が創業した養鶏場を継ぎ、自ら〈たまごの郷〉を立ち上げた大柿純一社長は、逆境のなか「事業を復活させたい」という強い想いを抱いた。そして震災後3年という短期間で、みごと事業の再開を果たしたのである。

身体の弱い父が作った養鶏場

「父は身体が弱く、若いころは入院もしていたそうです。そんな時、当時は貴重な食べ物であった卵を食べて、元気になったことが養鶏場を始めるひとつのきっかけであったと聞いています」と大柿社長は話し始める。先代は家でいろいろな動物を飼っており、もともと動物が好きだったことも、創業のきっかけだったのではないかと語る。
先代は当初、福島県双葉郡浪江町で鶏を飼い始めたが、昭和34年ころに交通の便の良い大熊町に移転、本格的に養鶏を始めた。創業時は鶏に対するワクチンなどもなかったため鶏がうまく育たず、100羽育てても約半数が死んでしまうこともあった。しかし徐々に養鶏場の規模を拡大していき、ピーク時には12万羽を飼育するほど養鶏事業は順調に推移した。大柿社長は36歳の時、養鶏場を継いだ。社長となった大柿氏は、当時の課題であった販売価格の安定化に対するひとつの解決策として、卵と卵を使った加工品の販売を行う〈たまごの郷〉を開業することを決意する。「鶏の餌は原材料の相場に左右され、卵の値段も日々変化します。高い時は利益が出るのですが、一度安くなってしまうとなかなか利益が出ない状況でした。また、大手の養鶏場と価格競争してもまったく歯が立たないので、自分で値段を決めて販売を行いたいと考えていました。そして、せっかく直売所を作るのであれば、おしゃれな建物で、卵のイメージアップも図りたかったのです。そこで考えたのがスイーツの販売でした」。こうして平成16年、大熊町に〈たまごの郷〉が開業した。6次産業化の先駆けともいえる取組みであった。

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<大柿純一社長>

安全だったはずの福島第一原子力発電所

養鶏場と〈たまごの郷〉は順風満帆であったが、平成23年3月11日14時46分、東日本大震災が発生する。気象庁が発表したデータによると大熊町は震度6強を観測。そして、福島第一原子力発電所の事故が起きてしまった。
「震災当日は、確定申告のため役場を訪れていた時に大きな揺れがきたと記憶しています。揺れが収まった後、急いで養鶏場と〈たまごの郷〉の様子を確認しに行きました。養鶏場は、16トン入る大きな飼料タンクが傾き、餌が溢れ出ていました。また、電気も止まり水も出なかったので、発電機を回してみたのですが、水道管も破裂していたことがわかり、手作業で鶏に餌と水を与えていました。当日は夜通し対応に追われていました」と大柿社長は振り返る。
「震災翌日は避難命令が出ていたので、バスを待っていたのですがなかなか来ず、待っていても仕方がないなと思い、養鶏場に戻って鶏の世話をしていました。その時、ヘリコプターが上空に飛んできて『早く避難しなさい』と言われ、防災無線では『放射能が放出されます』という放送を聞きました。『ベントを開く』といったことも放送で流れていましたが、当時は何のことを言っているのか意味がわかりませんでした。地震の時は、原発はむしろ安全なものであると思っていましたので、2~3日でまた家に帰れると考えていました」。
しかし実際は、福島第一原子力発電所の事故によって、大熊町全域が避難対象地域となった。大柿社長は一時田村市へ避難した後、茨城県つくば市に2週間、その後茨城県牛久市で1年半の避難生活を送ることとなる。
「震災から約1ゕ月が経ったころ、久しぶりに自宅に戻ることにしたのですが、何を着ていいかもわからず、ホームセンターで購入したカッパやゴーグルなどで身を固めて向かいました。町にはどこかで飼われていたダチョウが放たれていたほか、イノシシも歩き回っていました。養鶏場の鶏は、当然のことではありますが、卵を誰にも拾ってもらえないまま全滅していました。しかし、家で飼っていた愛犬は、ボランティアの方が首輪を外し、餌を与えてくれていたのか、どこにも行かずに家の前で番犬をしていてくれました。愛犬は今でも元気に暮らしています」。震災によって約10万羽の鶏を失った大柿社長。ただ、災害に遭い、避難生活を送っていてもなお、事業再開への想いは持ち続けていた。
「父親の代から始まった養鶏場を、このまま自分の代で終わらせたくなかったですね。〈たまごの郷〉の経営ノウハウもあったので、まだまだ事業をやりたかった。そして何より、息子のためにも事業を継続したかったのです」。
未曾有の大震災を乗り越え、事業再開に向けて奔走する日々が始まった。

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<震災直後の鶏舎内部>