機械1台から始まった「金型製作」

同社が創業したのは昭和45年。創業者の栄治会長は中学校を卒業後、徳島県から集団就職で大阪にきて、鉄工所で金型製作に取り組んだ。その後、25歳のときに「南金型製作所」を尼崎市西長洲町で立ち上げる。当初は他社の片隅を間借りして、機械1台で金型の設計・製作を始めた。
「背伸びせずにコツコツとやってきました。特に金型は固い仕事だから」と会長。配達は績子専務(夫人)が担当し、子どもたちもバリ取り(切削後のヤスリ掛け)を手伝うなど、家族一丸経営で取り組んできた。手形は切らずに現金主義、事務仕事も営業仕事も技術者である自分たちで全部やっていたという。こうした堅実経営は今でも続けられている。
創業時から現在に至るまで、同社のコア事業はプレス金型の設計・製作である。金属の変形は、プレス機と呼ばれる機械を用いて上から荷重をかけることで行う(これをプレス加工という)。その際、プレス機にプレス金型をセットすることで、金型の形どおりに金属を変形できるというわけだ。同社の作る金型を基に、自動車のボディからデジカメのボディ、さらには一斗缶の蓋まであらゆる製品が誕生する。金型はものづくりには欠かせない、あらゆる製品の源である。

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金型産業の低迷のなかで取り組んだ「部品加工」

新製品開発のためには欠かせない存在である金型業者も、現在は最盛期から3分の1以上が廃業・倒産した。そこには日本の金型産業の構造的問題があった。
そもそも金型製作は、メーカー・プレス屋からの依頼による仕事であるため、下請け形態の中小企業がほとんどである。そのため、親会社(メーカー)の方針転換による影響を受けやすい。日本経済の成長期は、自動車から農機具、コピー機などの事務機械まで、仕事はたくさんあったものの、バブルがはじけてからはメーカーの多くが工場を海外に移転した煽りを受けて、国内生産の新製品が少なくなり仕事量は減少した。金型業者の仕事は、メーカーから受け取った製品の図面を基に金型の図面を設計し、この「金型設計図面」に基づき加工・組立をして金型を完成させるものだ。金型産業では、かつて、メーカーからメンテナンスを理由とした「金型設計図面」の作成を依頼され、提供すると設計図面を中国等の海外に持っていかれ、2番型以降の類似品を量産されるケースが横行したことが問題となった。当時は金型設計技術という「知的財産」に対する理解が進んでおらず、技術流出に対して、国の制度も未整備な部分が多かったため、下請けの金型業者は「おいしいところを持って行かれた」のだという。会長は「ウチも設計図面を持ち逃げされる被害を受けたことがある」と語ってくれた。
こうした金型業界特有の問題もあり、金型業者の倒産が多く発生した。しかし同社は「縁の下の力持ち」では終わらなかった。当初は金型製作事業をメインとしていたが、そのほかに精密部品加工に取り組んだのである。金型の注文が少ない時期に、機械の遊休期間をなくすために始めたのがきっかけであったが、金型で培った技術力が精密部品加工に活かされ、今では「少量だが高価」な部品の受注ができるようになった。
「金型しか作っていなかったところはどこも経営が厳しかった。ウチは金型だけではなく、部品加工にも上手くシフトできたことで、今では金型の注文が減っても大丈夫と言えるようになった」と会長は胸を張った。

「成せば成る」精神

「ウチは金属加工のスーパーマーケットのような存在。金属なら何とかします、短納期で何でもやりますというのが一番の売りです」と会長は語る。毎年、滋賀県の琵琶湖で開催される自作人力飛行機の大会「鳥人間コンテスト」。同社はその参加者からの部品注文という、珍しい依頼を受けた。担当した南公子常務(以下、「常務」)は、「大手の企業だと、作業計画が2か月先まで詰まっているような場合が多く、急な依頼には応えられないですし、小さな会社や個人名での依頼は受けないというケースも多いんです」と語る。「その点、ウチは小回りが利きますし、仕事ならどんな内容でも、たとえ利益度外視でもやります。今回の依頼は、もともと余所で注文していた部品がうまくいかなかったため、納期も短い急ぎの注文だったのですが、休日祝日関係なく取り組みました。先日、依頼人からも『うまくいきました』という連絡をもらいました」。インターネットが普及する前の情報収集が簡単ではなかったころや、機械の精度が現在ほど高くなかったころは、難しい切削加工も手探り状態だった。
「納期に間に合わせるためには、休みも正月も関係なし。家に帰る暇がなくて機械の前に段ボールを敷いて寝たことが何度もあります」と常務は振り返る。同社の企業理念のひとつである「成せば成る」精神を貫き、あらゆる依頼に対し最大限の努力で取り組んできたことが、現在まで続く同社の高い評価に繋がっているのだろう。

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「けんしんーミナミテックー取引先企業」の信頼関係を礎に

兵庫県信用組合(以下、「けんしん」)との取引は、尼崎工業会の理事長から紹介を受けたことがきっかけとなり始まった。〈けんしん〉尼崎支店は、金融機関としては唯一、同会の会員企業であったため結びつきは自然と強くなった。「〈けんしん〉の野﨑会長(現相談役)、土肥理事長も展示会などによく顔を出してくださいます」。今では20年以上の付き合いであり、同社の会長は〈けんしん〉の総代も務めている。「〈けんしん〉は、尼崎工業会や中央会(兵庫県中小企業団体中央会)との繋がりがすごく強くて、仲がいいのです。そこでウチのことをアピールしてくださったり、補助金申請のお手伝いをしてくださったりするので、手厚いサポートを受けられる。本当に助かっています」と社長は言う。同社は〈けんしん〉のサポートにより、平成27年度及び28年度には国のものづくり補助金に採択された。兵庫県には金融機関数が多い。特に信用金庫数は11にもおよび、信金王国と言われるほどである。他金融機関から貸出金利の低さをアピールした肩代わりの提案が数多くあるというが、同社は今後も変わらず〈けんしん〉との取引を続けていくという。
「ウチのような小さい企業が今後も生き残るためには、信頼・繋がりが最も大事。信頼関係を続けていけば、雨の日にも傘を貸してくれるでしょう」。
「取引先に対しても、これまで納期に遅れないように、ミスを出さないようにやってきました」。現在、事業が上手く回っているのは、そうして取引先との信頼関係を築くことができたから。今後も、〈けんしん〉、取引先企業との強い信頼関係の下、尼崎の技術者集団「ミナミテック」は進んでいく。