SHINKUMI PEOPLE: (写真:左から富山県信組井上支店長、前川大地氏(彫刻師:前川金治氏))
インタビュー・構成 全信組連名古屋支店

日本一の木彫りの町として知られる富山県南砺(なんと)市の井波地区(旧井波町)は、「木彫彫刻のまち・井波」として文化庁が認定する日本遺産にも選定されている。木の温もりに溢れ、耳をすませば鑿(のみ)で木を削る音が聞こえてきそうな町家。真宗大谷派井波別院「瑞泉寺(ずいせんじ)」へと続く石畳の通り(八日町通り)の坂を上ると築120年の家屋に井波木彫工芸館がある。
平成から令和へと新時代がスタートしたその年、先代の父から事業を引き継ぎ、自身も彫刻師「前川金治(きんじ)」として活躍する前川大地氏からお話を伺った。

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井波彫刻の歴史

1390年に建立された井波別院瑞泉寺。井波彫刻は瑞泉寺の歴史と深い関わりがある。瑞泉寺は、これまで幾度となく焼失し、その度に再建されてきた。特に宝暦・安永年間(1700年代後期)には、再建のため京都本願寺から派遣された彫刻師「前川三四郎」が、地元井波の大工達に京都の伝統的な寺院彫刻の技を伝え、これが井波彫刻の始まりとなった。
昭和に入ってからも、井波彫刻師達は、その技術の高さから京都の東本願寺や日光東照宮など全国各地の神社仏閣の彫刻を数多く手がけた。そして、次第に住宅の欄間や衝立、置物など室内彫刻へと活躍の場を広げ、現在まで技術を受け継いでいる。前川氏の父である先代の前川正治氏もそのひとりである。
正治氏は、富山県展大賞をはじめ、日本最大の総合美術展覧会である日展などで数々の賞を受賞。現在は、日展審査員、井波彫刻協同組合顧問を務めるなど、井波彫刻の発展に尽力している。
井波彫刻は、経済産業大臣が指定する伝統的工芸品全235品目のうち、昭和50年5月に15番目と古くから認められた伝統技術であり、井波彫刻の魅力に魅せられた若者たちが全国からこの地へと集い、江戸時代より約300年続く技法を受け継いでいる。
井波には、日本で唯一、木彫工芸を専門に学ぶ職業訓練校「井波木彫工芸高等職業訓練校」があり、入校者は、井波彫刻に必要な知識・技能修得のための実技の授業に加えて、多くの時間を弟子入りした師匠の元で研鑚に励むこととなる。
今回お話を伺った前川氏も父正治氏の背中を追って井波彫刻の世界へと飛び込み、伝統を守りながらも、新たな木彫の可能性を切り開いている。
前川氏に尊敬する彫刻家を尋ねると、井波彫刻の祖とも言える「前川三四郎」氏の名前が挙がった。前川氏と同じ「前川」姓だが、もしかして...?と尋ねると、笑顔で「よく聞かれるけど、実は全く関係ないんです」と答えてくれた。

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受け継がれる業(わざ)と鑿(のみ)

井波彫刻は、大工が寺院彫刻を行うことから始まり、次第に芸術性が高まるとともに彫刻の対象が寺院から縁起物などが彫られた"欄間(らんま)"へと広がっていった。「欄間が彫れるようになれば、一人前の井波彫刻師」と語る前川氏。欄間の作成には、彫刻師に必要なあらゆる技術が要求されるからである。
井波彫刻の欄間は、立体的でどの角度から見上げても美しく、その題材によって躍動感や可愛らしさ、温かさが感じられる。微妙な彫り具合の調整や彫りだす像を互いに重ねる技術など、脈々と受け継がれてきた様々な伝統の業により、一枚の板から作られたとは思えない生き生きとした欄間が完成するのである。
井波彫刻には、独特な模様や形はないが、実は、ひとつの共通点がある。それは、基本的に"鑿"だけで作品を作り上げることであり、仕上げの鉋(かんな)や紙やすりなどは使用しない。井波彫刻には「荒彫り100本、仕上げ100本」という言葉があり、200数本の鑿を巧みに使い分け「透かし深彫り」を駆使し、豊かな表情を掘り出していくのである。
工房を拝見させていただくと、棚にはたくさんの鑿がある。前川氏曰く、「実際には、200本の鑿の中から使用頻度の高い20数本を使い作業している」のだそうだ。よく使用するお気に入りの鑿は、元々8cmはあった刃が、研磨を重ねることで今では3cmほどになり、木製の柄も長年使用した革のような独特の風合いに変化していた。伺うと、先代(父)から引き継いだ鑿で、約40年かけて短くなったものだった。業だけでなく、「道具」も代々受け継がれていくのである。
ところで、職人たちの精巧な業が光る欄間であるが、こんな裏話も。欄間は下から眺めるものなので上から覗いてみると、下からでは全く発見できない無骨な部分もあるとか。もしチャンスがあれば、確認してみてはどうだろう。